ぐるぐる日記

考え、書いて、のこす。

憧れの文章との縮まらない距離

ここをはじめいろいろな場所で書き始めてから、早くも書くことの難しさに直面している。

自分の文章が読みにくいというか。リズムに乗っていないというか。どうも釈然としないのだ。

書くという行為は好きだ。書きたい話題もある。だから書き始めるわけだけど、しばらく書いて読み返してみると、なーんか納得いかない。

しまいには書いているものがこの上なくどうしようもないようなものに思えて、キーボードを叩く手が止まってしまっていた。

その理由はいくつか考えられるのだけれど、一番はたぶん、書きたいように書けていないのだと思う。

私には以前から文章を読むのを楽しみにしている書き手さんが数人いる。「こういう風に書けたら」といつも思うし、文章のリズムや空気感を真似したいがためにノートに書き写すこともよくしている。

そんな風に憧れる「理想の文章」と実際に自分が書くものがかけ離れていて、げんなりしてしまうのだ。

具体的に言うと、私はもっとやわらかい文章を書きたい。やわらかく、やさしく言葉を連ねていきたいのに、どうしてもかたくてきつい印象の文章になってしまう。

いくら読み込んでも、書き写して傾向をつかもうとしても、やっぱり私の書くものは”私”の文章であって、憧れの文章とはほど遠い。

いっそ、これが私の文章なのだ、と開き直ってしまおうかとも思った。でも、もう少し諦めずに自分の書きたい文章を追い求めていきたいという気持ちがあって。

 

こういうわけでしばらく悶々としていたのだけど、そんな日々の中でふと、文筆家・松浦弥太郎さんが文章を書くときに心がけていることとして「大切な人を思い浮かべて手紙を書くように」(『伝わるちから』より)と言っていたのを思い出した。

それならできるかもしれない。まずは、心の中で大切な1人を思い浮かべて、書く。練習のはじまりだ。

 

 

春のケーキとおしゃべり

息子に会いに、元職場の先輩が訪ねてきてくれた。

退職してからもちょこちょこ連絡を取り合っていたけれど、直接会うのは半年ぶり。働いていた頃は毎日のように顔を合わせていたから、久しぶりという感覚が新鮮だった。

息子が眠りにつくのを見届け、持ってきてくれた六花亭のケーキをありがたくいただく。食べたのは、期間限定の桜のモンブラン。私が桜のスイーツに目がないことを覚えてくれていたらしく、わざわざ買ってきてくれたようだった。

ケーキを囲んで、この半年間にあったことを変わるがわる話す。「話したいことがたくさんあったんだよ〜」と止まらない先輩の話を聞きながら、そうそうこの感じ、とひとり懐かしい気持ちになった。

いつもたいてい先輩が話し始めて、私は聞き役。と言ってもただ黙って聞いているわけではなくて。決まって先輩は「ねえ、どう思う?」と尋ねてきて、それが結構頭を使うのだった。

私はいつも答えるのに時間がかかって。でも先輩は急かすことなく、うんうんと頷きながら話を聞いてくれた。それがとってもうれしくて、ついしゃべり過ぎて気がついたら閉店の時間、なんてことも何度かあった。

今回も例にもれず、たくさん考えさせられて、そしてしゃべった。最近はもっぱら息子とふたりきりで過ごす毎日だったから(もちろんそれはそれで楽しいのだけれど)、いつもよりも前のめり気味で話していたのかもしれない。先輩を見送った後「は〜、しゃべった〜!」となんだかとっても気持ち良くて、清々しさまでもあった。

仕事を辞めた今もこうして変わらず先輩と時間を忘れておしゃべりできることが本当にうれしいし、ありがたい。これからもこの関係を大切にしていきたいと心から思う。

 

 

いつか世界中を旅するその日まで

曇り空の朝、いつものように珈琲を用意していると、突然大学時代の友人から「今、テレビ電話できる?笑」とLINEがきた。

ちょうど息子もご機嫌タイム。「できるよ〜」と送ってまもなく、スマホの画面に広大な大地が現れる。

ワーキングホリデーとして昨年からオーストラリアで暮らしている彼女。1年間の滞在を終え帰国するのを前に、オーストラリア中を旅しているのだそうだ。ちょうどエアーズロックで日の出を見た後に連絡をくれたらしく、急にごめんね、この美しすぎる景色を誰かと共有したくて、と笑う。

画面いっぱいに広がる青い空と赤茶色の大地。その明るいツートンカラーが日本ではない、どこか別の国の風景であることを物語っていた。風が強いのだろう、声と共にゴーーッという轟音や、鳥のさえずりも聞こえてくる。私の立つ静かな台所とは対照的のにぎやかな世界だった。

珈琲を淹れながら、数千キロ離れた遠い国の大地を感じる朝。数分前までこんな風に画面越しにエアーズロックを拝めるなんて思ってもいなかった。ちょっとしたサプライズに、1人愉快な気持ちになる。

何より、自分が感動した景色を私に見せようと思ってくれたことがうれしかった。

彼女とは学生時代にたくさん旅をした。東京、広島、台湾、イギリス。ふとしたときに楽しかったなあと思い出される旅の思い出が、それはそれはたくさんある。2人でよく「社会人になったら、世界中のいろいろな場所へ行くんだ」という話で盛り上がったっけ。あれから数年が経ち、私は結婚して子どもを産み、彼女はあの頃の夢そのままに世界各地へ足を運んでいる。

今の私には彼女のような暮らしはできない。でも、世界中を見て回りたいという思いは変わらず持っている。そんな私にとって、彼女は楽しいこと・好きなことを思い出させてくれるエネルギー源のような存在だ。

日々の忙しさの中、目の前のことで頭がいっぱいになったとき。彼女と話すと「そうだ私は世界中を見て回りたいんだった!」と思い出す。その度、元の自分に戻ったような気がしていた。

今すぐは旅に出れないけれど。その代わりに、今は彼女が世界中から仕入れる思い出話を心待ちにする。いつか自分で世界中を巡る日まで、彼女の土産話からパワーをもらい、楽しませてもらうつもりだ。

もうすぐ一時帰国をする彼女。パリ五輪を日本で観戦した後、また別の国へ行く予定なのだそう。それまでに会う約束もしている。

今度会ったときは一体どんな話をしてくれるだろう。今からとても楽しみだ。

2018年春、彼女と卒業旅行で訪れたロンドンにて。青空の中、建物の隙間から飛行機雲がスーッと伸びていた。



 

ぼちぼち、少しずつ

久しぶりに目覚まし時計に起こされた朝。最近は夜中に息子に起こされるとあって、朝は自然に目が覚めるまで、もしくは息子に起こされるまで寝ていることが多かった。

新年度になったのにいつまでもダラダラ寝てるのはよくない!と喝を入れて起きてみたけれど、やっぱり朝はシャキッと早い時間に起きるのが性に合っているみたい。時間に余裕があると、気持ちにも余裕が生まれる。毎日この時間に起きられるよう、少しずつ生活のリズムを整えていこう、とトーストをかじりながらぼんやり考える。

里帰りから帰ってきてもうすぐ3週間。大量のベビー用品を整理し、4ヵ月分の埃をきれいに拭き取って、家の中が少しずつ過ごしやすくなってきた。息子も新しい環境に慣れてきたのか、最近はよく寝てくれている。バタバタだった日々にようやく落ち着きが戻ってきた。

そうやって静かな時間が訪れると、出てくる、出てくる、やりたいこと。
まずは、書きたい。英語の勉強をしたい。仕事について考えたい。刺繍も、読書も、カメラも。

思い浮かんだ「やりたいこと」や「やるべきこと」を頭の中で吟味する。

よーし。じゃあ、これは毎日やることにして、あれとそれは時間があるときに、週に1回は必ずやろう。
こうやって、生活リズムを整えたり日々のルーティンを決めるのが昔から好きだ。

とはいえ、小さな子どもが一緒となると、自分の予定なんて泣き声ひとつですぐ後回しになる。

生む前は、それがストレスになるのではと心配していたけれど、いざ生んでみると意外にも「そういうもんだ」と割り切れる自分がいた。

2年ほど前、元職場の上司に車の「あそび」の話をされたことがある。その頃は今よりももっとカッチリしていて、それゆえに自分で自分の首をしめてしまっていた。

車にあそびがあるように、仕事の中にもあそびをつくったら良いよ、と真夜中の駐車場で言われたっけ。
言われた当時は「そうは言っても…」と戸惑うこともあったけれど、今はその「あそび」を持てている気がする。

この調子で、何事も少しずつ。カッチリし過ぎず、ぼちぼち進めていけたらいいな。

 

始まりに寄せて

ずっと何かを書きたかった。でも、いつも長続きしない。忙しくて書けない日が続くうちに「こんなの書いて一体何になるんだろう」と、気持ちが冷え切って書かなくなってしまうのが常だった。ところが、やめたらやめたでしばらくすると書くことへの憧れが湧いてきて、また書き始める。数ヶ月経って、フェードアウトする。その繰り返しだった。

度々押し寄せる「書きたい」欲に、「書く」にこだわる自分に、「またか」とうんざりすることもある。

でも、その「書く→やめる→また書き始める」を何度も繰り返しているうち、最近になって少しずつわかってきたことがあった。

私は「書く」を通して生きていることを実感したい。

以前読んだ本の中で見つけた、「人間の大仕事の一つは世界を感じること。そしてその中で生きている自分に気づくことにある。」という一節。

私の場合、「生きている自分に気づく」のは、こうやって書いているとき。
書けばのこる。後から読み返すことができる。そうやってのこっていくものをつくるとき、私は今この瞬間生きていることをひしひしと感じる。「ああそっか、私は今ここで生きているんだ」。そんな風に今この時を噛み締める。その時間が好きなのだ。

書いているのは、何ということもない日々の記録。ときには頭の中を整理するために、考えがまとまらないままつらつらと書き出していることもある。大したことはこれっぽっちも書いていない。ただただ、自分のための行為。誰かに伝えたいメッセージがあるわけでもなく、何のためにもならないかもしれない。

それでも、私にとって「書く」は生きていく上でたしかに必要なもの。だから、あれこれ気にせず、書きたいと思った時に書いてみようと思う。

4月1日。たくさんの人が気持ち新たに迎えたであろうはじまりの月曜日、この場所で再び書き始める。